昭和52年02月18日 杉家霊祭



 おばあちゃまの五年の式年祭をおかげ頂きました。なんとかというあの法師が詠ったと言われます「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞けば 父かとぞ思う 母とかぞと思う」、これは遺族の者、いうならば親を思い、御先祖を思うた切実な、仏教的な閑念から詠われた詩だろうとこう思いますね。いうならば仏教でいう因縁説とか、生まれが悪いとか言った様なもの、はたしてほんとに亡くなった父が、亡くなった母が御霊の世界でどういう生活をしているのであろうか。
 ひょっとしてあの鳴いておる山鳥のあれが、ひょっとしたらお父さんかもしれない、お母さんかもしれないと、何かそういう切実心のことでしょうね。私しは霊祭にはとくにこの、親が子を思う、又は子が親を思うという、その思いが交流しなければ駄目だと。その切実心がこうした、まあいうならば御祭りともなって、ほんとにそれこそ、海山川の種々のものを供え奉って、そして思いをこのように表すと言う事。
 けっしてお母さんが甘いものが好きだったから、辛いものが好きだったからという思いもさることながら、これは丁度まあ分かりやすく言うならば、御霊さまのいうならば、五年目にあたる御誕生日と同じこと。その御誕生日にいうならば、パーティーなんかを開いて、自分の知り合いの方達を呼んで、そしてその祝いの日を祝う。
 自分の御霊のいうならば、助かっておる度合又はその力に応じて、沢山な御霊様たちがこのお母さんの御霊様を中心にして、それこそ喜びの集いをなさる。甘いものが好きな方には甘いものがふるまわれ、辛いものが好きな方には辛いものがふるまわれる程しの、いうならばこれはあの、御霊様のお心を思う時にほんとに、かたずよいと申しましょうか、なんとも言えん喜びを今日の御霊様の心中を感じました。
 五年の式年がそれこそほんとに、あっという間にこう流れた、ああもう五年にもなられると、ちょうどおばあちゃまが亡くなられる前の月の、敬親会の時に、「親先生こんなものを作りましたから、親先生お部屋に飾って下さい」と言うて、鉢も白なら木も白、白ばっかりで作った梅の花を、造花を自分で作ったというてお供えに持って参りました。まあそん時、私はハッとそのことを思いましたんですが、それから一月後に亡くなられたわけですけれども。
 ほんとにあの、真っ白の梅の花に、真っ白の木のね、もう自分で自分の死期を分かっておられたかのような感じがあらためてするんですよね。今日その五年の歳月が流れて、はたして御霊様は御霊様ながらに、御修行があっておられる、どういう力を受けられたのじゃろうかと私、神様の前で思わせて頂いた。もうそれこそね、、まだ二十歳代の若い姿で、しかもスキーのふたへやでね、もう雪山ですよ、そのスキーをサーッとあの使って下られて、またその山をこう、越えていかれる。
 それこそジャンプからまたジャンプと言った様な姿を頂くんですよ。それからまた夏山のね、あの若い方達が、あのリックを担いでね、あの山の頂上を目指してから登って行くでしょう、ああいう姿を頂くんです。もう私はそれを頂いた時に、確かに今合楽で、合楽理念ということをいわれるが、御霊はもうその、そのことに専念しますからね、例えば私ども肉体を持っておる者は、神様のことを思うたり、自分の生活を思うたり、まあいろんな我情が出たり、我欲が出たりしますけれども。
 御霊様が助かり出しとられる御霊様というのは、もう自分の魂が清まって、助かっていくことだけしか考えてない。しかもなら合楽理念に基づいて、この修行が出来ておられるということは、御霊の世界にいうなら、光明世界に住んでおるからというて、けっしてなら、はなのうてなんちゃんと坐っておられるちゅうことはけっしてない。人間生活と同じ事、様々な山もありゃ川もある、夏もありゃ冬もあると言う事、それをあぁ寒い寒いとガタガタ震えながら過ごしておる人と。
 又はそれをもうほんとに楽しい事、有り難い事として信心で、合楽理念に基づいてこのところを楽しゅう過ごしていけれる道がある道を歩いておる人と、御霊様も同じ事。五年間の間に、こういうような若々しいまでの力を頂いて、もう山を山とも思いません、寒い雪山も雪山と思いません、もうむしろそれが楽しゅうて、楽しゅうして、もうほんとに喜び一杯で、その山を越え川を越えしておられると言った様な状態を私は感じましたです、そのお知らせ頂いて。
 これはもう御霊様に神習わせて頂いて、私共も合楽理念に基づいていきますならば、日々日々の中に、どう言う事があってもです、ほんとにどう言う事があっても神意が分る、御神愛を分らせて頂いたら、合掌してしかも楽しゅう嬉しゅうと言う事は、この例えば山を越せば、またひとつの力がつく。このなら難儀を私どもが、神愛として受けきっていったら、もう難儀と言う事ではなくて、もう神愛とこう感じられる。
 その難儀と思えるそれを合掌して受けられる、神様がより力を下さろうとする働きとして受けて行く事ができると言う様な楽しゅう。なら今熱心に合楽で信心をしておられる方ならば、どういう問題であっても有り難い勿体無いで、それこそね、自分の方の家が丸焼けになっておっても、有り難い、有り難いで御礼を申される人達があるように、もうそれこそ素晴らしい御徳を受けて、おかげを受けておられる人があるようにね、難儀というものは、私どもの信心世界にはない。
 それは神様がより力を下さろうとする、より御徳の世界を広げようとして下さる神愛、御神慮の他にはない。それを楽しゅう、しかも有り難く頂いていけれる道を神愛を分からせて頂く言わば、合楽理念に基づいて御霊ながらの御信心のご修行がある、しかも楽しゅう、有り難う出来ておられて、今日のいうならば、わかり易く申しますと、今日は私の五年の誕生日、この世に誕生した誕生日、と言うて自分の関わり合いのある御霊様達を、いうならばお呼びになって。
 「さあどうぞ召し上がれ」「どうぞ飲んでください」と言った様な、なんかそういう御霊の喜びを感づるような、まあ今日の御祭りを奉仕させて頂いたと思います。御霊様に神習わせていただいて、私どももどういう雪山であろうが、あぁ寒い寒いと凍えておるのじゃなくて、スキーの術を覚えると、もうスキーを担いで山に登らなければおられない、いうならば楽しさがあるような生き方をいよいよ身につけたいと思いますよね。
   どうぞ。